コラム『ごみは異なもの味なもの』

第3話 - たこ壷思考からふろしき思考へ

2009/07/14  NPO法人理事長 広瀬立成


 ごみと言えば、いつの時代にも、「きたないもの、価値のないもの」として敬遠されてきた。ごみは、「塵」「芥」「埖」などと書くが、はじめの2つは、「ちり」「あくた」などといわれて悪の権化のように扱われている。埖は花のように散る土という意味で、ごみに対して多少の好意を感じないわけではないが、つまるところ、生活から遠ざけたいものであることには変わりはない。「亭主をごみ扱いする」とか、休日などに手持ち無沙汰な夫を「粗大ごみ」などと呼ぶのは、ごみが歓迎されない存在であることを端的に物語っている。


 ぼくは、物理研究で、140億年前の宇宙の開闢時代や物質の究極状態など、日常生活から遠く離れた世界を探求してきた。他方、ごみは日常生活に密着している。両者は互いに対極にあり、まったく相容れないようにみえる。物理学とごみの共通点といえば、ともに人々に嫌われているということだろうか…。

 純粋科学の典型といわれる物理学が、日常生活の雑多な原因で発生するごみとなぜ結びつくのか、不思議に思う人がいるようだ。事実、講演会でも、ぼくの経歴を知っている人は、いまぼくがごみ問題にかかわっていることを物好きな人間と思っているらしく、どうして物理学者がごみ問題に関わるようになったのかという質問をよく受ける。


 たしかに、ぼくにも、ごみと物理学は別もの、考えていた時代があった。そんなある日、それまでの常識的な発想を180度変える1冊の本に出会った。

 それは、ドイツ・ボン大学の総長で物理学者のルドルフ・クラウジウスが、ドイツ皇帝ウイルヘルム1世の誕生日(1885年3月22日)に行った講演「自然界のエネルギー貯蔵とそれを人類のために利用すること」をまとめたものだった。

 当時ヨーロッパでは、産業革命が進む中で、蒸気機関が急速に発達し、おびただしい量の石炭が消費されていた。クラウジウスは石炭資源の枯渇と、それがもたらす文明の危機に警鐘を鳴らしたのだ。とくに「いかなる財も、その時期に再生産されうる分量を超えて消費することはできない(中略)。われわれが消費できる燃料は森林の成長によって新たに生産される分量だけであるはずだった」という一文は、ぼくに強い印象をあたえ、いつまでも脳裏に焼きついて離れなかった。

 クラウジウスの著作に刺激を受けて、自然のしくみや地球環境の持続性を、物理学の視点から考えてみることにした。

 環境というとてつもなく広い世界と、そこに展開するさまざまな現象を包括的に理解するためには、これまでの狭い学問分野にこだわっていてはどうにもならない。いわゆる「たこ壷思考」から「ふろしき思考」への転換が必要なのだ。